日本を紳士の国に変える 第八十七幕
病院からの帰りはただ時間だけが過ぎた。
車は快活に風を切りながら進む。
僕は助手席の窓ガラスに頭を寄せて、猛スピードで過ぎていく景色を、ただ漠然と見ていた。
「末期癌らしい。」父が先を見つめ、アクセルを緩めることなく呟いた。
「治るんでしょ?」僕の声は怯えている様に聞こえたかもしれない。
父は何も言わなかった。
その代わりに僕の頭を乱暴に撫でた。
父は涙を堪えていた。
涙が夕日に照らされて、とても綺麗に輝いていた。
その涙が教えてくれたことは、
野田の人生に終わりが近いと言うことだった。
僕は野田の家に下宿させてもらうことになった。
野田は奥さんとの間に子供を授かることはできなかったそうだ。
しかし結婚して19年、二人で確かな愛を育んできた。
リビングには野田と奥さんと二人で写った写真が沢山飾られていた。
写真の中にいる二人は幸せそのものだった。
ピースを両手で作って、歯を全部出して笑っていた。
心が締め付けられた。
奥さんの作る料理は優しい味でとても美味しかった。
奥さんは僕に気を使って笑顔でいてくれたが、目は嘘をつかなかった。
眠れなくて、泣き腫らした目をしていた。
病室に入ると野田が立って窓の外を見ていた。
「今日は調子が最高だよ!」すっかりコケた頬で目一杯笑った。
大きな体の変なおじさんは、
ただの変なおじさんになっていた。
「今日から宜しくお願いします。」僕は頭を下げた。
「よし、じゃ俺の知っていることを全て教えるよ!メモは取らないように!時間がないからね!頑張って覚えるんだよ!」野田は無理に明るく努めているようにも見えたが、楽しんでいるようにも見えたから僕は嬉しかった。
その日から野田の調子が良い時はスーツの採寸や歴史、種類などを教えてもらった。
調子が悪い時は奥さんと二人で野田の看病に徹した。
病気は野田の体を着実に蝕んでいった。