日本を紳士の国に変える 第三十三幕
男は 佐久間 と名乗った。
加賀谷が戻ってくるまでの間、少しばかり話をした。
無職の僕には、初対面の人との会話で
一番されたくない質問がある。
それは ”お勤めはどこなのか” これだ。
しかし佐久間は一度もこの質問を投げかけてこなかった。
他愛もない会話をしていると、奥の部屋から会長が出てきた。
どうやら、佐久間の担当らしい。
佐久間は壁に積まれた分厚い本を指差し、本を選んでいるみたいだった。
加賀谷が奥の部屋から出てきて後ろの分厚い本の中から
悩み選ぶ仕草を見せることなく、一冊の本を手に取った。
周りの本と比べると、お世辞にも綺麗とは言えない本だった。
これは”バンチ”って言うんですけど、生地を選ぶときに使う、カタログみたいな物なんです。と加賀谷が僕に手渡しながら説明した。
本の中には無数の生地が綺麗に貼られていた。
「まぁ充さんの生地は決まっているんですけどね!」加賀谷が満足そうに笑う。
生地の名前は聞いたのだが、難しくて覚えていなかった。
お風呂の中で思い出そうとしてみたのだが出てくる気配はなかった。
あれから、ボタンの数や、襟?の種類。
沢山選ばされたが、正直何もピンときていなかった。
お風呂から上がり、リビングで母親とご飯を食べた。
その日はお皿を洗って、自分の部屋の掃除までして、スマホのゲームも程々に寝た。
あのお店でスーツを作ってもらってから一ヶ月と少し経っていた。
外はまだ暑いが、朝方や夕暮れは少し肌寒い。季節は着々と過ぎていた。
僕はいつもの堕落した生活を繰り返し、繰り返し刻んでいた。
同級生たちが次々に結婚していた。
僕はスマホのゲームをしている時だけはそれらの事を忘れることができた。
リビングで麦茶をラッパ飲みしていると、スマホが鳴った。
加賀谷だった。
スーツが出来たから取りに来てください!とウキウキした声を響かせてきた。
なんだか麦茶をラッパ飲みしている自分が少しだけ恥ずかしくなった。
大きな鈴の音を申し訳なさそうに鳴らして、ARMORに入った。
店の中には会長と加賀谷と、あと何故か佐久間がいた。
僕はこの間の採寸の部屋へ通された。
カーテンが揺らめき入ってきたのは、会長だった。
その手には僕のものであろうスーツがあった。
巨大な三面鏡の前で僕はスーツに身を包んだ。
何とも形容し難い満たされた心持ちになった。
幼い頃、球技大会で周りから一目置かれていた、あの時の優越感。
「どんな気分だい?」
僕は初めて見たかもしれない。
いつだって、和かで広角は上がりきっている会長の真剣な眼差し。
初めて会長、老人と会話をすることができた。