日本を紳士の国に変える 第三十幕

 

 

 加賀谷 恭平 と金色の文字で書かれていた。

 

 加賀谷は僕に一度お店にいらしてください。とだけ言い残して僕のもとを去っていった。

歳は僕とそんなに変わらないくらいだろうと思う。しかし、恥ずかしくなるほど体格も身なりも何もかもが加賀谷に軍配が上がった。

 

それは当たり前のことだった。

向こうは名刺を持っている。働いているってことだ。

僕は牛乳とにんじんと玉ねぎが入ったエコバッグ。

同じ土俵にすら立てていなかった。

 

 牛乳とにんじんと玉ねぎだけが入ったエコバックを手にぶら下げボーッと空を見上げる。夕陽が名残惜しそうに沈んでいく。生暖かい風が僕の背中をそっと押す。

 

 扇風機が仕様がなくプロペラを回し首を振っている。僕は加賀谷と出会ってからというもの、外に出ていなかった。

 

母親から買い出しを頼まれでもしない限り外に出ることはない。あの買い出しから一週間と少し経っていた。

 

母親は僕のことをどう思っているのか、時々考える。

何もかも僕に期待することを止めたのだろうか。

そのほうが僕にしてみれば有り難かった。

これからの人生考えると、このままではいけないことは分かる。

でも、自分が会社に入って働いている姿が想像できなかった。

行動を起こすのが怖かった。

また惨めな思いをするくらいなら、この部屋でスマホゲームをしていた方がずっといい。

 

 

 僕は散らかった部屋の掃除を始めた。掃除機をかけていると、加賀谷の名刺がカーペットの裏に落ちていた。

僕はその名刺を細かく破いて、ゴミ箱へ入れた。掃除が終わると麦茶を飲んでスマホでゲームをした。

 

ガチャっと一階の玄関が開いた。母親が帰ってくるにはまだ早かった。僕は部屋を出て下を見ると、母親が玄関に座り込んでいた。

 

 ごめんね、熱があるの、夜ご飯は出前でも頼んで。と僕に言って寝室に入っていった。

僕はすぐに近くのスーパーに行って、熱冷シートとポカリスエットを購入した。早歩きでスーパーを出ると、後ろから声をかけられた。

 

あの脚の悪い老人だった。「こないだは本当にありがとう。」

僕は頭の中が母親に早くポカリを飲ませないと、という思い一心だったから、適当に挨拶を返した。

すぐにその場を去ろうとした時「お礼がしたいから、一度お店にいらしてください。」と老人が言った。僕は急いでいたから「わかりました。必ず行きます。」と言った。

爺さんはニコッと笑って、悪い脚を引きずりながら、歩いていった。

 

 少し走って家に帰ってきたものだから、肺が押し潰されそうになった。身体へのダメージが僕の引きこもり生活の長さを表してくれる。自分が飲みたくなったポカリを母親に渡して熱冷シートをおでこに貼ってやった。

 

 部屋に戻って、老人に言われたことを思い出した。

ゴミ袋から黒々とした名刺のカケラを集め、まるでパズルのように組み合わせていった。

ようやく文字が解読できるまで復元できたから、場所をスマホで検索した。

案外家の近くだった。場所だけ確認して、すぐにスマホゲームに切り替えた。