日本を紳士の国に変える 第三十一幕

 まだまだ暑い。蝉の鳴き声が耳の奥を叩く。

僕はいつぶりだか分からない私服に着替えて家の前に立っていた。

母親から買い出しでも頼まれない限り、家から出る事も頑なに拒んできた。

 

 最寄りの駅まで歩いて行く。

久しぶりにゆっくりと街を歩いた。

電話を耳に押し当てて、せかせかと先を急ぐ営業マン。

一歳くらいの子供の手を引いて歩く母親。

周りの景色を眺めながら歩くと不思議と穏やかな心持ちになった。

 

 切符を持って、電車を待つ。

電車が遠くから轟音を響かせて近づいてくる。

僕は電車に乗り込んで、

目の前に来たかと思ったら、一瞬で過去になる景色を

ただただ呆けた顔で眺めていた。

 

 電車を降り、僕の住む街から三駅。津唐町に着いた。

僕の住む街より少し栄えたところだ。

街路樹が道路の真ん中に植えられ、

道を挟むように喫茶店や、うどん屋や、散髪屋などが軒を連ねていた。

スマホを取り出してお店までのルートを調べた。

 

 ルート通りに歩いている途中、今から行くお店が、

何のお店だったか知らないことに気づいた。

そういえば、場所を確認して

すぐにスマホゲームを始めたんだと思い出した。

つくづく自分が嫌になる瞬間が最近多い。

 

 そんなことを考えていると、

自分のスマホから機械的な冷たい声色で「目的地周辺です」

 

 

 僕の目の前にはショーケースに三体並んだマネキンがいた。

三体とも黄色がかった暖かい光に照らされ、

とても鮮やかで煌びやかなタキシードに身を包んでいた。

体のラインにピッタリとあって

柔らかそうだが、それでいて真っ直ぐに堅実さを示すような

タキシードを着たマネキンを目の前に、

僕は完全に言葉を失っていた。

 

 カランカランと大きな鈴のような音がして僕は我に返った。

「ようこそ、ARMORへ。」あの足の悪い老人がニコニコとこっちを見ていた。

 

 老人は足を引きずりながら、僕の方へ歩いてきて、

僕にだけ聞こえるような、小さな、暖かい声で

「私が君くらいの歳の頃に仕立てたタキシードだよ。」と呟いた。

この時の老人は僕の方は見ずに、

三体のタキシードを纏ったマネキンを、懐かしむような眼差しで目を離さず話していた。

僕は何も言葉を発せずに、目のやり場に困りながら

タキシードを無言で老人と眺めていた。

 

 「会長、お電話です。」

僕と老人が三体のマネキンから目を離し、声の持ち主を見る。

加賀谷だった。

老人が小さく頷き、悪い脚を引きずりながら店の中へ入っていった。

 

 加賀谷は一瞬、誰だろうという疑念を隠す適度な表情を作ったが、

すぐに僕のことに気づいたみたいだった。

重厚感のある扉を右手に持ち替えて

ニコリとして、「ようこそ、ARMORへ。」と左手でお店の中へ誘うような手振りをした。

僕は自分でも分かるほど引きつった顔で

軽く頭を下げて、頭をあげることなく

小さな会釈を繰り返すようにお店の中へ申し訳なさそうに上がり込んだ。