日本を紳士の国に変える 第125幕
世は実に不可解だ。
自分の善意を押し通せば、
それは悪意に変わる。
自分の中では確実に善意だったものが
相手に同調を求めた瞬間、悪意に変わることがある。
さらに相手に自分の善意を批判されようものなら、
たちまち相手を軽蔑し、反撃の狼煙を上げ、
間違った考え方をする奴だと追放する。
その反撃に有利な武器になり得るのが、
お金持ちの博識の意見だ。
自分の善意が間違っていないと、
どこかで解答が欲しいのだ。
解答なんて無いのだけれど。
「ほれ見てみろ。俺の意見が正解だっただろうと。」
実にくだらない論争の始まりだ。
どこかの動画のコメント欄を覗くと、
いつもこんなものだ。
これまた面白いのが
さっきまで相手の意見が100%間違ってると
必死の形相で捲し立てていた者が、
そうです、あなたの意見が100%正しいです。
と、相手に言われると
一気に不安になる。
不安になって不安になって
かも、自分の意見じゃないように語り始める。
私は全てに正解はないのではないかと思う。
例えば人を殺めてしまった人がいるとする。
その人は20年間介護をしていた母親が
ついに認知症になって息子の事もわからない。
自分も70を超えて介護鬱になっていた。
このような状況での殺人は、
皆さんの目にどう映るだろう。
息子さんの立場になって考えるのではないだろうか。
可哀想だと。お疲れ様でしたと。
状況が変われば善意は変わる。
だから相手の意見は聞かなくていいのだ。
違って当然だから。
自分の善意を信じればいいのだ。
自分は自分。相手は相手。
こうありたいものだ。