日本を紳士の国に変える 第九十幕

その後は4人でゆっくり話した。

 

僕の父の話や、野球の話、色恋沙汰の話もした。

 

野田は終始笑っていた。

 

時々、聡美さんの顔を見つめて。

 

強い西日が差して暑くなったからカーテンを閉めた。

 

クーラーが利いたオレンジ色に染まった病室は、とても居心地が良くて

 

この時間が永遠に続けばいいのになと思った。

 

多分4人とも同じことを思っていたと思う。

 

野田の豪快な笑い声。

 

聡美さんの綺麗な笑い声。

 

窪田さんの高くて可笑しな笑い声。

 

 

僕の人生で一番、素敵な時間を過ごした、この日は

 

一生忘れることのない。

 

大切な大切な一日になった。

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日本を紳士の国に変える 第八十九幕

聡美さんが病室に入ってきた。

 

どうやら聡美さんも知っていたみたいだった。

 

野田は相変わらず、眠ったままだ。

 

聡美さんが野田の眠るベットの横の棚から、

 

一つのメジャーを僕にくれた。

 

「この人がずっと使っていたものよ。この日に遼兵君に渡すように言われていたの。」

 

「ありがとうございます。」僕は野田に目を向けた。

 

静かに眠ったままだ。

 

「早速、天野の息子、そして野田の一番弟子にスーツを作ってもらおうかな!」窪田が屈託なく笑う。

 

採寸の練習はこれでもかと繰り返した。

 

野田に教わった順番でしっかりと採寸をした。

 

オーダー用紙に寸法を記入して、ゆとり量の計算もした。

 

最後まで終えて寸法を確認していると、

 

「見せてごらん。」野田が真っ直ぐに僕の方を見ていた。

 

僕の方に伸ばされた野田の手は、奇妙なほどに細かった。

 

その頼りない手に用紙を挟んだバインダーを渡した。

 

野田はじっくりと用紙を見た。

 

僕をジロっと見た。

 

「大丈夫だ。安心して任せられる。」ゆっくりと笑った。

 

病室の空気が一気に緩んだ気がした。

 

「窪田、ありがとう。わがまま聞いてくれて。」

 

「お前の言うこと聞かないと呪われそうだからな!」

 

僕は少しヒヤリとしたが野田は嬉しそうに、

 

そして楽しそうに笑った。

 

「生地とディテールはもう決めてあるから。

遼兵君の最初の作品はイタリアの名門 

Ermenegildo Zegna エルメネジルド ゼニア 

最高峰の生地。」

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日本を紳士の国に変える 第八十八幕

僕が下宿を始めてから一ヶ月近くが経とうとしていた。

 

相変わらず外はうだるように暑い。

 

一度病室で野田と二人になったことがあった。

 

「聡美は家でどんな感じ?」

 

「普段通りだと思います。でも僕がいるから無理に明るくしてくれているんだと思います。」

 

「そっかー!遼兵君がいると安心だなー。俺がいなくなっても聡美のこと少しだけ気にかけてやってくれな!」

 

「そんな縁起でもないこと言わないでくださいよ。」僕は笑った。

 

 

一週間あれば体調が良い日が四日か五日くらいあったが、

 

それが三日、二日と少なくなっていった。

 

医者はホスピスを勧めた。

 

一日中眠っている日もあった。

 

僕は野田の痩せ細った体を見るよりも

 

聡美さんがお湯を湿らせたタオルで、野田の体を丁寧に拭く姿の方が見ていて辛かった。

 

目を充血させて、目頭に涙をこれでもかと溜めて、体を拭いていた。

 

野田は骨だけのように痩せて、薄黒い肌の色になっていた。

 

 

 

朝、いつもの様に病室へ入ると一人のスーツを着た男がいた。

 

僕が挨拶をすると、男もまた挨拶をした。

 

野田はまだ寝ているみたいだった。

 

「君が遼兵君?」男が聞いた。

 

「はい。失礼ですが、どちら様でしょうか?」

 

「僕は野田と遼兵君のお父さんと大学の頃一緒に野球をやっていた窪田って言います。」

 

「あ、そうだったんですね!せっかくですが、最近一日中寝ている日が多くてお話ができるかどうか、、、」

 

「いえ、この日に来るように一ヶ月近く前に連絡があったんですよ。スーツを作って欲しいって。野田の頼みだから聞かないわけにはいきませんからね。来たんです。」

 

「あぁ、でもこんな状態ですので、厳しいかと、、」

 

「いや多分。遼兵君の最初のお客さんになってくれってことだと思いますよ。」窪田はニコッと白い歯を見せた。

 

「俺の弟子が現れたぞって嬉しそうに電話してきたんです。しかも天野の息子だ!って幸せそうに笑ってました!」

 

 

僕は眠っている野田の顔を見て、

 

やっぱりふざけてるな、この人。と思った。

 

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日本を紳士の国に変える 第八十七幕

病院からの帰りはただ時間だけが過ぎた。

 

車は快活に風を切りながら進む。

 

僕は助手席の窓ガラスに頭を寄せて、猛スピードで過ぎていく景色を、ただ漠然と見ていた。

 

「末期癌らしい。」父が先を見つめ、アクセルを緩めることなく呟いた。

 

「治るんでしょ?」僕の声は怯えている様に聞こえたかもしれない。

 

父は何も言わなかった。

 

その代わりに僕の頭を乱暴に撫でた。

 

父は涙を堪えていた。

 

涙が夕日に照らされて、とても綺麗に輝いていた。

 

その涙が教えてくれたことは、

 

野田の人生に終わりが近いと言うことだった。

 

 

僕は野田の家に下宿させてもらうことになった。

 

野田は奥さんとの間に子供を授かることはできなかったそうだ。

 

しかし結婚して19年、二人で確かな愛を育んできた。

 

リビングには野田と奥さんと二人で写った写真が沢山飾られていた。

 

写真の中にいる二人は幸せそのものだった。

 

ピースを両手で作って、歯を全部出して笑っていた。

 

心が締め付けられた。

 

奥さんの作る料理は優しい味でとても美味しかった。

 

奥さんは僕に気を使って笑顔でいてくれたが、目は嘘をつかなかった。

 

眠れなくて、泣き腫らした目をしていた。

 

 

病室に入ると野田が立って窓の外を見ていた。

 

「今日は調子が最高だよ!」すっかりコケた頬で目一杯笑った。

 

大きな体の変なおじさんは、

 

ただの変なおじさんになっていた。

 

「今日から宜しくお願いします。」僕は頭を下げた。

 

「よし、じゃ俺の知っていることを全て教えるよ!メモは取らないように!時間がないからね!頑張って覚えるんだよ!」野田は無理に明るく努めているようにも見えたが、楽しんでいるようにも見えたから僕は嬉しかった。

 

 

その日から野田の調子が良い時はスーツの採寸や歴史、種類などを教えてもらった。

 

調子が悪い時は奥さんと二人で野田の看病に徹した。

 

 

 

病気は野田の体を着実に蝕んでいった。

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日本を紳士の国に変える 第八十七幕

病院の階段を父と登る。

 

ナースステーションで部屋を確認する父。

 

野田さんがいる、病室へ歩く。

 

僕は本当に野田さんがその部屋にいるのか信じられなかった。

 

病室の前のコンピュータが打った、素っ気ないネームプレート。

 

その名前を見ると、野田がそこにいることが、

 

現実として僕の前に重たい空気を落とした。

 

父が扉をノックする。

 

部屋の中から女性の声で「どうぞ」と聞こえた。

 

引き戸を恐る恐る開く。

 

部屋の片隅にあるベットには

 

以前の面影を微塵も残すことのない野田がいた。

 

酸素マスクを被せ、枕に頭を沈めている。

 

野田の横にピッタリと添う、奥さんであろう人。

 

父は奥さんであろう人に頭を下げた。

 

「あなた、天野さんが見えましたよ。」

 

薄らと目を開けて、笑顔を作ったものだから、酸素マスクが持ち上がった。

 

奥さんがベットを自動で動かした。

 

野田が機械に操られて起きる。

 

「遼兵君、哀れそうな目で見るなよ。」野田が冗談を言った。

 

僕の笑顔は完全に引きつっていただろう。

 

「くたばるなよ。」父の言葉は冗談にも聞こえたが、

 

目だけは本気で真っ直ぐに野田を見ていた。

 

「今日は何しに来たんだ?」息苦しそうに野田が言った。

 

「野田さんのところで働かせてください!!」

 

僕の声は病室でこだまするほど大きなものになった。

 

野田ははにかみ、痛々しく点滴をぶら下げながら、

 

親指を立てた。

 

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日本を紳士の国に変える 第八十六幕

 父に野田のところに行くからと言われた時はワクワク感もあったが、少し緊張もあった。僕なんかを野田さんは必要としていないだろうし、野田さんの期待に応える事ができる自信もなかった。

 

 僕が父に相談してから2週間が経ったくらいの金曜日に、明日野田のところに行こうと父が言った。

 

 僕はワクワクと緊張であまりぐっすり眠れなかったが、5時にはしっかりと目が覚めた。野田のところに行く時は必ず朝が早い。しかし一時間経っても父が起きてこないので痺れを切らして寝室まで起こしに行くと、「今日は少しゆっくり出るぞ。」と言った。

 

 僕は興奮して眠ることができなかったから、近所を散歩した。もちろん カノニコのスーツと新品の僕の相棒も一緒に。朝の散歩は優越感を特に感じられた。

朝日が澄んだ空気に包まれている。生活音もあまりなく夏というのを忘れさせてくれるほど、静かで凛と涼しい。夏の朝は好きだ。放射冷却で寒いとも思えるほど冷える。しかしそれがいい。寝ぼけた頭に綺麗な空気が流れ込む。

 

 結局、家を出たのは10時頃だった。野田のところに行く時はいつだって父の心は晴れやかに見えたが、今回の父は重たい表情をしていた。僕はあまり喜ばしくない結果になるのかなと勝手に落ち込んだりした。

 

 大分のインターで降りて、お店のある方向とは逆に、父はハンドルを切った。

「お店こっちじゃないよ?」

「あぁ。野田は今日お店にはいないんだ。」

そうなんだ。と言って深くは考えなかった。

 

 車が止まったところは大きな病院の駐車場だった。

 

「野田さん病院にいるの?」

「少し体の調子が悪いみたいでな。すぐ治るって本人は言ってるんだけどな。」父は笑ったが、本当のことを知っている表情だった。

 

その時は流石に僕にも気付くことができた。

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日本を紳士の国に変える 第八十五幕

僕は少しだけ変われた気がする。

 

前の職場に居た時の自分よりも。

 

今の自分の方が好きだと思う。

 

人生には沢山の分岐点が存在すると思う。

 

僕が仕事を辞めたことも分岐点だろう。

 

”辞める”か”辞めないか”

 

この選択を正解にするのか、間違いにするのか。

 

それは、未来の僕が過去を振り返った時に

 

分かることであって選択の時には決してわからない。

 

 一ヶ月前にカノニコのスーツが届いて僕のベットの正面にはいつもそいつがいる。いつだって華麗に輝いている。何度見ても美しいスーツだった。このスーツのために少し高めのシャツとベルトと革靴を購入した。

 

 僕はやりたいことが見つからなかったが、野田の下で働きたいと思うようになっていた。これまで部活動や会社を経験していても、尊敬する人間に出会ったことがなかった。しかし野田と出会って、僕は野田を尊敬したし、憧れになっていた。

 

 ある夜、ビールを飲んでいた父に相談してみた。

「野田さんの会社で僕も働けないかな?」

父は険悪な表情を残して、なんでだ?と聞いた。

「これまで尊敬する人に出会ったことがなかった。でも野田さんと出会って、僕も野田さんのような人間になりたいって思ったんだ。」

「野田が聞いたらかなり喜ぶだろうなぁ。よし、週末野田に会いに行くか。」

父は少しはにかんで見せたが、その奥には薄暗い雲がさしていた。

その時の僕は将来に一筋の太い光が差し込んでいたので、その表情には気づくことができなかった。

 

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